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孤独ではないゼロからの挑戦

株式会社 土っ子田島farm
代表取締役社長
Yuda Hirokazu
南会津町出身、横浜の発電所メーカーに勤務しチリ駐在を経験。Uターン後は実家の農業に従事し、土っ子田島farmを創業。会津産の果物を使ったオリジナルのジュース・ジャム、手づくり味噌などを製造販売。地域の6次産業化を牽引

世界で1番遠い場所で、奥会津に生まれた意味を考えた

南会津町で生まれ育ち、現在、「土っ子田島farm(つちっこたじまファーム)」の取締役を務める湯田浩和さんはオリジナリティあふれる経験を経て、現在は農業と食品加工に従事している。特に、その土地の作物を使った6次産業化に力を注ぐ。

「奥会津のこの土地ではおいしい果物や野菜がたくさん取れます。そういったものを各農家の方々に持ち込んでいただき、ジュースやジャム、ピューレなどへと加工しています。私たちが販売まで一貫して行うことで、直接お客様とのつながりを持つことをテーマにしています。」

奥会津の農作物を加工したおいしい商品をお客様に届けるために、湯田さんはさまざまな工夫を凝らす。
「ダイレクトメールを発信したり直売イベントなどに出店したりして、直接お客様においしさを感じてもらう工夫をしています。また、一度ご購入いただいたお客様の中には、その後またご連絡をいただいて季節ごとにおいしいものをお届けできるような関係性を築いている方もいます。」

湯田さんの届ける商品を心待ちにしている全国のファンは多い。
「旬のものをお届けしたいと思い、季節に合わせて準備をしています。毎年食べてくださる方からは、『待ってましたよ!』とご連絡いただくこともあります。こちらのお知らせが遅くなってしまうと、『まだ来ていないけれど、ちゃんと送ってくれた?』と待ち構えてくださる方もいるほどです。

また、これまでは食べ方のバリエーションが限定されてきたようなご当地の食べ物に関しても、現代風にアレンジした食べ方をご提案することもあります。例えば、つぶした米を固めて『じゅうねんみそ』を塗る『しんごろう』という奥会津の郷土料理があります。その『じゅうねんみそ』を野菜のディップソースに使う食べ方などを発信しています。」

地球の反対側で自分の故郷に思いを馳せる

奥会津を遠く離れた湯田さんは、どんな経験を積んできたのだろう。
「中学卒業後、いわき市の高専に進学。卒業後は横浜市で発電所を作る仕事をしていました。全国津々浦々、海外の現場にも行くような仕事でした。そんな日々の中、ある日出張から帰るとチリに赴任するように言われます。迷いましたが、3年間にわたり赴任することを決断。大変なことも多かったですが、言葉も通じず文化もまるっきり異なる人々と仕事をする経験は、非常にいい人生勉強になりました。」

チリでの生活も慣れてきた頃、湯田さんは実家からの辛い連絡を受けることとなる。
「ずっと私を可愛がってくれた祖父が癌になったという連絡があり、日本に一時帰国しました。これが最期の別れになるだろうと思い、祖父の手を握る……。私は泣きながらチリに帰りました。」

「チリに戻ってすぐに、祖父が亡くなったという報告を受けました。祖父の遺言は、お骨は父が持ち、私に写真を持ってほしいというもの。しかし、遠く離れたチリにいる私にはそれを叶えてあげることができませんでした。」

この大切な人との別れにより、自身の人生を考え、噛み締めることとなった湯田さん。
「次第に奥会津に生まれ、この家で育ったことに、必ず意味があると思うようになっていきました。そして、この奥会津に帰ってこようと決断しました。世界で1番遠い場所で、1番大事な人を亡くしたことで、これからどう生きていくかを考えたのです。」

「自分のしたいこと」を追究し6次産業化を目指す

「家に帰ろうかな」という湯田さんの言葉に対して、両親の反応が意外なものだった。

「『なんで帰ってくるの?』と言われたんです。息子が帰ってくるのに、嬉しくないのかなと驚いたのですが、自分で新たにやりたいということがなければ、帰ってきても後悔するんじゃないかという心配があったようなのです。確かに、それまでの仕事にもやりがいもあったので、それを辞めて帰って、家業を継ぐだけではもったいないかもしれないと思うようになりました。

いろいろと考えていくうちに、6次産業化を盛り上げていこうと方向性が見えていきました。農作物を作るだけでなく、加工して付加価値をつけて、それを販売する。その流れを加速させていこうと考えるようになっていきました。」

食品加工に力を注ぎたいという思いの背景には学生時代に見た両親の背中があったという。
「長年、湯田家では花を栽培して市場に出荷するという仕事に従事していました。しかし、途中から花がとれない冬場の仕事として、味噌の製造と販売を始めたのです。私の中で、こうした生産者と消費者が直接つながる事業は楽しそうだと思ったんです。

そうした思いから、果物を使って、ジャムやジュースを作る設備を少しずつ作れるよう加工場を立て、保健所の許可を取ってと、準備を進めていきました。」

現在の仕事にはどういった楽しさがあるのだろう。湯田さんはこう続ける。
「ウェブショップやふるさと納税などでご購入いただき、『おいしかった』と口コミをいただけることは嬉しいです。また、電話やファックスで『孫が喜んでくれた』『うちの子はここの味噌でないと味噌汁を飲まないんです』といった言葉を届けてくださることもある。そうしたことはとても励みになります。」

地域のみんなが見守る中で子育てができる

「横浜に住んでいる時は、どこに行っても何百人という人とすれ違いました。しかし、自分のことを知っている人は1人もいないんです。最初に住んだ頃は、自分の世界だけで完結しているので楽だなと正直思いました。しかし、次第に休日など1人の時間があると寂しいなと思う気持ちの方が大きくなっていきました。

奥会津は人と人とのつながりが非常に濃いです。例えば、地域の行事や奉仕作業が多いんです。大変なこともありますが、そういう人とのつながりの中で生きていくのが、人間の本来の姿なのではないかと今では思っています。」

湯田さんは子育てをする中でも地域のつながりのありがたさを実感しているという。
「3人の子どもがいるんですが、近所の人みんなが見守ってくださる中で子育てができています。これは本当にありがたいことです。」

ゼロからの挑戦も孤独ではなかった

「奥会津は自然がいいね」といわれても以前はピンとこなかったと言う湯田さん。しかし、今は奥会津の美しい自然の中に生きていることを実感するようになったという。
「新緑の時期の緑の美しさ、山の鮮やかさ、虫の鳴き声、星空の綺麗さなど、奥会津の外に出てみることで、これは地域の宝だということを知ることができました。」

ゼロから食品加工場を作った湯田さん。その過程で、地域のさまざまな方の支援を受けたという。

「挑戦をする中で孤独だったかというと、そんなことはありませんでした。私のチャレンジを家族や近所の方々、役場のみなさんなどたくさんのサポートをいただきました。そのおかげで、現在なんとか軌道に乗せることができています。」

たくさんあった道のなかで、この奥会津の場所で新たに挑戦したことは湯田さんにとってどのような価値があったのだろう。
「現在幸せだなと思えているので、奥会津に帰ってきてよかったと心から思えています。自分の未来を自分で決めることができることに、非常にワクワクしているんです。自分で仕事をすることは大変な面もありますが、以前とは比べものにならないくらい充実した毎日を送っています。」

湯田さんはこの場所でずっと生きていく人も、外に出て戻ってきた人にも、「地域を盛り上げていくことに携わっていってほしい」という思いが強いと言う。
「1人でも多くの若い人がこの動画を見て、『こういう人もいるんだな』と思ってくれればいいなと思っています。もしご連絡をいただければ会って、お話もできるのでぜひ前向きにこの奥会津での暮らしを検討してみてください。」

奥会津が育んだ豊かな農作物を湯田さんが丁寧に加工し、全国に届けていく。そして、その逸品は多くの人の心を打つ。地球の裏側を経て故郷・奥会津にたどり着いた湯田さんの挑戦はこれからも続く。

動画では、ここで紹介した以外にもご自身の仕事の魅力や大切にされていること、奥会津の暮らしの好きなところなどさらに詳しいインタビューも収録。ぜひご覧ください。
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