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「帰ってきたい」と思える場所

パティスリー塔之坊
あづまや旅館 若女将
Azuma Kumiko
UIPCG第12回国際ジュニア製菓技術者コンクールドイツ大会で優勝。フランスでパティシエ経験を積み、柳津町へUターン。洋菓子店「パティスリー塔之坊(とうのぼう)」をオープン。あづまや旅館・若女将

世界一のスイーツ作りを経験してたどり着いた「帰ってこられる場所」への思い

奥会津の柳津町であづまや旅館の若女将をしながら、洋菓子店「パティスリー塔之坊(とうのぼう)」で予約者向けに洋菓子や焼き菓子を提供する東久美子さん。高校卒業後に上京し、パティシエの専門学校へと進学した。

「小さい頃からものづくりが好きで、料理や洋服などを作っていました。特に自分が作ったものを、家族が『おいしい』と食べてくれることがすごく嬉しかったんです。高校3年生の進路を決める時には、周りと違うことをしてみたいという思いが湧き、当時まだ珍しかった製菓を学ぶことができる専門学校へ進むことに決めました」

日本代表として世界大会へ進出

専門学校で2年間製菓作りを勉強し、卒業の際に「学校の助手の仕事に就かないか」と声をかけられる。採用後は仕事の楽しさに目覚め、さまざまなことを吸収しようと積極的に取り組んだ。そうした日々の中で、「コンクールへ出てみないか」と声をかけられる。

「最初はコンクールに出場している先輩の姿への憧れや、『タダで海外に行けるかも』といった気軽な気持ちでした。書類選考がたまたま通過したことを伝えると、世界大会に出場してきたような先生が『せっかくだから勝ちにいきましょう!』と私を鼓舞してくださったんです」

周囲からの応援を受ける中で、「もしかしたら世界大会に行けるかもしれない」という思いが強まっていったという東さん。寝る間を惜しんで実技審査の練習に懸命に励んだ。

日本大会出場の際には、「勝ちたい」という思いよりも、「力を出しきれなければ、関わってくれた人たちに申し訳ないという気持ちの方が強かった」と語る。「やるべきことをやりたい、やり遂げたい」という気持ちでいっぱいだったという。

日本大会の日、「みんなが見守ってくれている」と感じていたと語る東さん。
「制限時間がギリギリでしたがなんとか仕上げることができて、『よかった、間に合った!』という思いばかりだったんです。そうしたら、日本代表に選出されて……! 私もびっくりしたのですが、周りもすごくびっくりしていました。

新しいことにまた挑戦しなければいけないんだという不安と、新しいことができるというワクワクとで、すごく複雑な思いを抱いていました」

幸せな挑戦で世界一を掴む

色々な思いがかけ巡りながらも、次の日から世界大会の準備をスタートさせた東さん。「周りのサポートにすごく恵まれて世界大会に向けて歩んでいくことができた」と振り返る。

「世界大会では、『こんな広い会場で作業できるなんて幸せすぎる!』、そんなふうに思いながら、ワクワクして会場に入り、準備をしました。大会の結果は、下の方の順位から順番に発表されていきました。『あれ、まだ呼ばれない』『まだかな』と思い待っていると、なんと最後まで残ってしまって。信じられませんでしたが、世界一として表彰台にあがることができました。

両親も応援にきてくれていたので、目の前でこうした結果を得ることができ、少しだけでも恩返しができたのではないかと思いました。嬉しさよりも、多くの人のサポートへの感謝の気持ちで胸がいっぱいでした」

仕事に打ち込む姿勢は言葉を超える

世界一に輝く体験をした東さんだったが、その前途は決して順風満帆なものではなかったという。
「世界大会で優勝したという経験を経て、今後、ものづくりに対してどう向き合っていけばよいかわからなくなってしまったんです。悩みや迷いが心を占めるようになっていき、一旦この環境から離れたいと思うようになっていきました」

そうした思いから、東さんは日本を離れることを決意する。「フランスの生活で洋菓子がどう根付いているのかを見に行こう」と思い立ったのだ。タイミングよくフランス人の教員がバカンスでフランスに戻るのと合わせて渡仏できることとなった東さん。ホームステイし、洋菓子店でも働けることとなった。

「パリ郊外にある洋菓子店で働きましたが、言葉の面での苦労は絶えませんでした。ただ、日本でもレシピはフランス語で記述していたので、ものづくりについては理解しながら進めることができました。また、任された細かなお菓子細工もうまく対応することができ、世界大会をきっかけに身につけた技術は無駄ではなかったんだと実感することができました。

フランス人と一緒に働く中で、言葉はうまく通じなくても、仕事にきちんと打ち込んでいれば、海外の人ともつながることができるのだということを学んでいきました」

次第にフランスでの生活に慣れていったという東さん。しかし、その生活は長くは続かなかった。
「当時あまりメールを使い慣れていなかった母から、突然、父の病を告げる連絡が来たんです。急いで日本に一次帰国をしました。『父はビザが切れるまでフランスで頑張っておいで』と言いましたが、『安心してもらいたい』という思いが勝り、私は帰国して実家に戻ることを決断しました」

帰国した東さんは、家族の後押しもあり、あづまや旅館の一部を改装し、洋菓子屋をスタートさせる。「お店にお客様がくるのを陰から眺めてとても喜んでいた父の姿を思い出します」と東さんは懐かしく振り返る。

「帰ってきたい場所」を残したい

父が亡くなり、その後結婚をし、東さんは一時奥会津を離れて仙台へと移り住む。しかし、しばらく経って奥会津に再び戻った。そこにはどのような思いがあったのだろう。
「時代の流れに合わせて自分の生まれ育った場所もなくなっていくものなのかな、と漠然と思っていました。しかし、『帰ってきたい』と思う場所があるということは、自分が生きていく上で必要なことだと考えるようになっていきました」

奥会津へと戻ってきた東さんは、子育てをする中で「見守られている安心感」を感じていると語る。
「子どもたちのことを近所の人はみんな知っています。朝登校する際に、見守ってくれていて『今日、○○ちゃん来ていなかったけれど大丈夫?』と声をかけてくれるようなこともあります。自分1人で抱え込むというよりは、周りの人たちが『どうしたの?』とどんどん助けてくれます。私がしてもらってきたことを、今度は自分が年下の人たちにお渡ししていく。それが恩返しになっていくのかなと思っています」

子どもを見守る姿勢は学校や行政でも感じるという。「保育園でのサポートが充実していたり、誰と誰がきょうだいかがわかっていたりと、子育てはしやすい環境なのではないか」と東さんは続ける。

奥会津の人たちは人見知りなので、移り住んできた人はどんどん自らコミュニケーションを取ってほしいと東さんは言う。
「Iターンの方々へも、昔のことを教えてくれたり、心配してくれたり、協力してくれたりします。色々お世話してくれる方がたくさんいる土地だと感じています」

奥会津での当たり前は当たり前ではない

東さんは、「外の世界を見ることは、自分を成長させてくれる機会になる」と言う。

「私自身もそうでしたが、地域の外に出てみることで、景色や人、食べ物などが決して当たり前ではないのだと知ることができます。インターネットで世界中と繋がることができる時代ですが、実際にその場で体験してみないとわからないことはたくさんあります。ぜひ多様な経験をしてほしいと思っています」

世界一を経験し、一度はフランスへ渡った東さん。丁寧に作る美しいスイーツは多様な体験が凝縮された逸品だ。東さんは受けた恩を下の世代に贈りながら、「帰ってこられる場所」を守り続けていく。


動画では、ここで紹介した以外にもご自身の仕事の魅力や大切にされていること、奥会津の暮らしの好きなところなどさらに詳しいインタビューも収録。ぜひご覧ください。
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